昭和45年12月31日 朝の御理解
御理解 第96節
「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」
神が顔を洗うてやる。神様がいわば顔を立てて下さる。私共今はその感が薄いかもしれませんけれども、私共は商売をさせて頂きます。今日三十一日十二月の大晦日の、今日という日は泣くも笑うも今日一日だと言った様な事を申します。いわば神様に顔を立ててもらうという、おかげを頂くと言う事で一番その顔を立つことに頂いておる。一年中のいわば締めくくりおかげで滞りなく、一年中の締めくくりが出来た。貰う所は貰うた払う所は払うたと言った様なね。
ところが払うところは払うたという様なおかげを頂けないと、いわば世の人があれこれと神の事を口端にかけるのもと、神の比礼じゃとも仰せられとりますけれども。それはどこまでも神様のお心であり、私共としては本当に神様の比礼をけがすと言う事になる。信心させて頂いておって、今日という大事な日にその締めくくりが出来ない。めでたい正月を明日に控えて、あれも是もとすっきりする事が出来ないなりに元日を迎えても、自分自身もそうであろうけれども。
あれがもう信心ばしよるばってん借金は負いかぶってから、もうしらごとばっかり言うちから払いもせんとかと、言う様な事であったら。成る程それは神様の目からご覧になればね、そう言う事によって、一段と自分の精進が足りない事努力の足りない事、所謂真の信心には似ても似つかない。信心はしておるけれども、只々程度の低い信心に血道をあげておるという事だけを愈々思い知らされる日だと思うね、今日は。
成る程あれが信心しよるけれども、金光様も力がなかごと、例えば信心のない者が言うてもです。成る程ね、神様の目から御覧になれば神の比礼。けれどもそれを受ける私共としてはです。神様の御比礼をけがしたという事になるのです。随分と私共はここをやっぱ通らせて頂きました。全部の支払いが出来ませんから、半分なら半分を持って行って断りに参ります。もう運蕎麦どん食べちから、ゆっくりしてあるお家なのです。
こんな訳で今年は不如意だったから、来春早々に払わせて貰うから、まぁ今年はいっちょ、これで、こらえてくれという風にして、払いに参りますとね。それこそ運蕎麦どん食べちから一杯機嫌の人がこんこんさん、こんこんさんち言うばってん、こんこん様もおかげ頂かせきらっしゃらんばいのち、言うような事を、もうそれこそのっけから言われた事があった。もう本当に穴があるなら入りたい思い。
断りのそれこそ事情を言うて、出らせて頂いてから障子を襖を閉めてこうやってから、挨拶を言うて帰ろうとしたら中から言わしゃった。貧乏神が出て行かにゃんきん、そこは閉めんでおって下さいち言わしゃった。私の事を貧乏神とこう言われる訳なんですよ。だから、私はその襖を閉めようと思うたら、貧乏神が出て行かんならんけん、そこはそのまま開けといて下さいとこう言われた。やはり肝に応えますね。
神様私の信心が至りませんために、本当に相済まん。この様な事で本当に是だけは、やっぱ忘れられませんね。そういう時に又人の親切というものに触れる事もありますけどね。そげんあんたいつまっでん貧乏するち決まっとらんじゃから、それで良かがのという風に言うて下さる方もある。けれどもです矢張り私共も、そういう意味でですね、本当に神様の比礼を傷つけ又は汚して参りました。
そこでほんなら一心発起が出来た訳です。ようし今に見ておれと言った様なものじゃないですね。落ちぶれて袖に涙のかかる時人の心の奥ぞ知られる。本当にその心の奥が分ります。日頃は親切そうに言うておっても愈々の時には、そっぽを向いてる。そうでもない様にあるけれども頼ってみたら、そら誰でん困った時は同じだと言うて親切を施して下さる方もある。本当に人の心の分る。
そういう時にです今に見ておれと言った様な、矢張り根性をお互い持つ訳ですけれどもです、その根性がねそれこそ袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知られるじゃなくてです。愈々自分自身の心の奥が分る。自分自身の信心の正体が分る。おかげを頂かせても貰わなきゃいけん。自分自身の信心の正体がです、自分の心の奥が分る。随分働いてきた。それこそ、啄木の詩ではないですけれどもね、働けど働けどわが暮し楽にならざりという人もあります。じっと手を見るである。
だから金光様の御信心をさせて頂いておってです。本当に働いても働いても実意を尽くして、実意丁寧神信心させて頂きながらもです。それこそじっと手を見らなければならない程しの、悲しい事でありましてもです。愈々じっと自分の心の底、自分の信心のあり方を覗かせてらう。じっと手を見ただけでは、おかげにゃならん。愈々自分の信心のおかげの受けられん元は、ここにあると言う様に分らせて貰う。
そこから生まれてくる御比礼。そこから生まれてくるおかげ。そこに気付かせて頂いた喜び。成る程今年は苦しいことであった悲しい事でしたけれども。来年はこの手この行き方を、愈々本気で行じさせて頂く事と言う、私はおかげを頂かなければです。神が顔を洗うてやると言う様な事にはならないと。人からどんなに悪口を言われても、笑われても。成る程腹を立てるなと、神が顔を洗うてやると仰るのは。
成る程腹でも立てるだんじゃない、自分自身の非を覚らせて貰い、自分の信心の行き方を立て直し、考え直させて頂いてです。新たな信心意欲に燃え立っての信心が出来てこそ始めて、神が顔を洗うてやると言う事になるのです。今日ここに名刺が置いてある。ある方の草野の方です。私は昨日は一日炬燵の間で、昨日風邪具合が悪かったから、少し早めに休ませて頂こうと思っていたけれど、休まれん位に次々と年末だもんですから、人が尋ねてみえるから。
丹前を大きな丹前を着ながら、皆さんを応対させて頂いておると言った様な状態でしたから、私に取次がなかったのですね、きっと。名刺だけが置いてある。ああこれは本当に会わにゃ済まんお方であったと。それこそ私の人から笑われておった時代に、大変親切にして下さった方なんです。ここの大きなヒマラヤ杉がありますね。あれを献木して下さった方なんです。
もう大変親切に私が愈々困った時にも、大変親切に力づけて頂いた方なんです。私は二十何年間前の事を思い出させて頂いてです。本当に初めて私を尋ねてみえて、その献木されてから、切っておられる訳なんです。本当に私がまあ例えば、成功すると言うか私が段々おかげを頂くというか、それを心から喜んで下さる方の一人だと、自分で思うです。だからこそここの建築が出来た時に、いち早くですね献木を申し出てこられたんです。恐らくここにこうして上がって見えられたら。
ああ本当に、やっぱり神様だなぁ大した事だなぁと思うて下さっただろとこう思います。今日は早速お電話でもしてお断りを、まぁ言わせて頂こうと思うておりますけれどもね。また、何か用事があって、お頼みでも、何かある様な事であったら、本当に、聞かせて頂かねばなるまいと思う訳です。それがどうでしょう。二十何年経っても、ほんなら私がですね。やはり金光様の信心は続けておるけれども、昔のように、難儀をしておったということであったら恐らく、廊下に沢山な米が積み上げてある。
恐らくお正月のお祭に、これをお供えされるとじゃろうというふうに、まぁ見ておって下さったじゃろうとこう思います。本当に嬉しい気がいたします。私の事を心配したり、親切に力を付けて下さった方でありますから。いわゆる神様が顔を洗うて下さった姿であるとこう思います。だから信心しておればね、いつか神様が顔を洗うて下さろう等と言うような甘い考えではいけん。
私が来年の信心の、お互いの焦点とでも申しましょうか。来年は愈々本気で大きなおかげを頂こうとこういうのである。いや頂かせて下さろうとする神様のね、お心がねひしひしと伝わってくる感じがするんだと。信心のある者とない者は、いわば親のある子とない子ほどの違いだと仰られるが。例えばそれこそ貧乏神が出ていくのだから、そこを開けとってくれと、言われるような恥ずかし目を受けましてもです。
こん畜生今に見ておれという様な根性。そういう気持ちはしなかった。ただひたすら神様にお詫びをするだけだった。こういう時にですほんなら、相手を恨むではなくてです。本当に神様相済みません。私の信心が不行届きでございますから。この様に所謂金光様のお顔に泥を塗るような結果になった事を、心から詫びれるという事が有難い。そこに信心のある者とない者の違いを当時は感じた。
神信心を頂いとらなかったら、いくら何でも、そんな事を面と向かって言われる。一杯機嫌とは言いながら。ようし今に見ておれというような、いうなら喧嘩腰の強い根性が生れたであろうけれども、そう言う事はさらさら無かった。けれども只々神様に相済ん、本当に真の信心をさせて頂いて、おかげを受けなければなぁという思いが、ただ強いだけであった。だからそういう事がです。
成程信心させて頂いておると言う事は、親のある子とない子ほどの違いと仰せられるが。神様がこの様にしてです、厳しくお躾をくださる。親があればこそだと言う様な頂き方をしたものです。親があるからこそ親無し子であったら、どんなにわがまま勝手な生活をしておっても、それこそ浮浪児の様に垢だらけにしておっても、誰もどう言い手はない、親がいないから。
けれども親があるから顔が汚れておるならばひっ捕まえてでも、こげん顔が汚れてるじゃんのと言うてから、顔を押しこくって洗うてもくれるし、着物なら着物の洗濯もしてくれるし間違うたら、こげな生き方で行くもんかと言うて教えてもくれる。そう言う親を感じた。私共が二十年間ここに信心の稽古をさせて頂いて、そう言う意味に於いての信心のある者とない者の違いを、そこにいつも焦点をおいて皆様にも聞いて頂いた。
そしてです今年を締め括らせて頂いて、来年こそは親のある子とない子ほどの、そういう内面的なもの内面的なものをです。いわばじっと手を見てきたではなくて、じっと自分の心を見つめてきた。袖に涙のかかる時その心が分ったでなくて、愈々天地の親神様の心の奥の奥が分ってきた。そこにです私は親のある子とない子ほどの違いを感じさせて頂いてきた過去ではあったけれども。
来年という来年は、愈々その親のある子とない子ほどの違いを、形の上にどうでも現わして頂かねばという意欲、いわゆるそういう態勢を以って、新たな信心に向かい、新たな年を迎えたいという風に思うのです。そこでそれが願えれる信心という事。それを愈々確かめた上にも確かめさせて貰うて、進めさせて頂こう。だから願うからには焦点がなからなければならない筈である。どうぞおかげを下さい。
もちっと楽な生活がしたい。そんな事じゃない筈ですよね。福岡の長浜町の今はあそこに、市民会館か図書館やらがありますが、後にあの頃はもうそれこそ、朝鮮人の部落があった。それから所謂掘建小屋のような小屋が、ずっうと並んでおった時代でした。今はもうその時分の面影はさらさらありません。そういう中の一軒に私共は住まわせて頂いておった。そん時に、若先生が六つですか、豊美が七つ、一つ違い。
ちゃんと朝豊美が家の中のお掃除をすると、勝彦が庭の外を庭と言うても、開けた所が庭ですから雨が降る時には、その下駄を家の中さへ持ってこなければ、下駄が濡れるとといった様なお家なんです。窓というたところで窓らしい窓ではないですけれどね。私が勝彦にね丁度、そこから少し離れたところに、製氷会社の住宅が今で言うなら、丁度あの文化住宅のごたるとが小さい家が、ずらぁっとならんでおった新しく。
勝彦ちゃん、あげなお家に住んだら、こげんとこで良かか、あげな家が良かかと言うたら、そらああげな家に住んだ方が良かよち言います。そんなら一生懸命ね、御用させてもらわにゃいけん。一生懸命御用させて頂いて、おかげ頂かにゃいかん。兄弟二人でガラを拾いに行きます。それから浜ですから焚きもん、私共夫婦その当時はあの福岡の町の真ん中ですよね。岩田屋から、こう行ったところですから。
長浜町の一丁目ですから。今はそうなんです。もう薪一本買わなかったんですからね、私共は。みんな、子供達が学校から帰ってきて、豊美が勝彦を連れてから焚き物拾いに行く。かがり持ってからガラを拾いに行く。私はお参りの帰りに下駄を拾うてくる。家内が、それこそ、一足てんなんてんて落ててはおりませんからね。片一方ずつ拾うてくると、何とはなしに一足ずつ出来た。
家内が子供にゃ娘達にゃ赤い布で緒を作ってやる。息子にゃ繩の緒の下駄を立ててやる。それを綺麗に洗って履かせて貰った。あの時代の事を今から思わせて頂きますと、それこそ夢のような事でございます。けれども私共はねそういう時にです。もうそういう時に愈々、神様の心の奥が分っておった時でありました。ちゃっと子供達も言う事はいらん。ちゃっとお掃除でも、それこそ薪拾いでもガラ拾いでも行ってくれる。
嘘のようですけれど本当ですよ。町の真中におってからねガス代がどうの、電気代がどうのと。ああ始末倹約しよると言うばってん、私共くらいにいうなら始末倹約の限りを尽くした者は居りませんと、自分でも思います。決してね薪一本買わなかった、炭一つ買わなかったんですから。勿論下駄一足買わなかったんですから。それでもやっぱり近所の、近所と言うても土井の人達ですよね。
何か色んな相談事があると、すぐ家に持って来なさると言った様な。昨日家内があの時分の事を思い出してから言いよりました。豊美の運動会の時じゃった。そしたらこの位ばっかり肉を持って来た。そしたら隣に兎がおったんですよね。そこの隣の小母さんが兎をその殺してね兎の肉を、明日お弁当のお菜に持って行きなさいち言うちから頂いたばってん。あれだけは食べきらじゃったちてから、昨日家内が言いよりましたが。
そういう時代ねもう私共は、愈々神様の心の奥ぞ知られるという生き方をさせて頂いて、それこそ、針で押すだけでもお粗末御無礼があってはならんと言う生き方に焦点を置いての信心生活でした。それが段々この様にしておかげを頂いて参りますと、もう本当に神様に相済まん事ばっかりで、申し訳ないのでございますけれども。元旦の是はお年玉になる訳でしょうか。こういうのが出来て参りましたけど。
是は四代金光様がお書きになった書体を真似て私が書いた物です。「こればかりの事なるからによからんと心許すに過ちおこる」と言う、是は金光様のお詠でございます。私共がこれ程いうなら、熱烈な信心をさせて頂いておるのに、どこが悪けりゃおかげ頂けんじゃろうか。成る程こういう小さい穴からではあるけれども、そこからずうっとおかげが漏っておったなと言う様な事に気付かせて頂き。
例えて申しますと私共がそうした修行中の時代にです。もう愈々神様の心の奥の奥が分らせて頂いてです。それこそメリケン粉一掬いでもです、御粗末ご無礼な事があってはならない。塩一摘まみでも広大なものであったとして、おかげを頂いて参ります所からです。願いは大きな願いを持っておる。大きな願いをも持ちながら自分の信心の言わば焦点をですね、そういう小さな所からでもおかげが漏る様な事があってはならない。
まぁ言葉に出して言うとそれまでですけどね、その時分はもう言葉ではなくてもう実際、私共の生活全体がそうであったように思うのです。その時分にです現在のおかげの受け物が出来ておったと思うのです。樺目に来てからおかげの受け物が出来たっでもなからなければ、合楽に来てからこういうおかげの受けられる元が出来たんじゃない。その時代にですそれこそ、伏せて伏せて伏せだらけになっておるようなです、あの当時伏せという事をお布施と仏教で、お布施と申しますね。
どうしてこげな貧乏をせんならんだろうかと言うことをです。成る程ここにこういう大きな穴が開いとるもん、ここにはこげな埃があったという所を気付かせて頂いて、それこそ伏せに伏せを当てさせて頂いて、袋が出来上がっておった時なんです、の時代が。だからこそ神様が下さったら、それこそ水一滴でもそれこそ漏らさないだけの、米一粒でも漏らさんですむおかげがこの様にして蓄積されて、樺目合楽を通して、今日この様なおかげになって来ておるのです。
いうなら神様が顔を洗うて下さることのおかげが、成る程神様じゃなぁと当時の私共を知った人ならば、必ずそう言われるであろうと思います。今日という日は、お互いがです、一年中愈々、締め括らせて頂くというのでございますから。泣くも笑うも成る程今日一日。けれどもそこにです、昨日などはおかげを頂いてから、もう今年は今まで赤字ばっかりであったけれども、今年はこういう風におかげを頂いたと言う様な、おかげが続いておった。昨日、お礼参拝に来ておった人達は。
それでまぁおかげを頂いてから、黒字とまでは行かんけれども、まぁおかげで借金払いも出来て是からは、ひとつもう貯めさせて頂くばっかりと言った様な、意味のお届である。そこで私は愈々おかげを頂だかせて頂く段、言うなら大きなおかげを、親のある子とない子ほどの違いを形の上に、神様どうぞ表して見せて下さいと言う様な、願いをかけての信心に入らせて頂く訳でございますけれども。
それとてもしっかり、大きなおかげを下さっても、どこから漏る事のない様な、自分の心を愈々一つ完璧を期してです、おかげの受物にそして大きな願いをさせて貰い、その大きなおかげを頂きとめて、愈々世のお役に立たせて頂く事の為に、おかげを頂いた時こそです。初めて神様が顔を洗うて下さったという事になるのではないでしょうか。金光様の信心をしよりゃ何時かおかげを頂くじゃろう。
と言った様な甘い考え方ではなしに、只今申しましたように過去二十年間は、いうならば内面的な意味においてです、親のある子とない子との違いを感じてきたが。今度はいわば形の上に現わして頂きたい願いを以ってです。来年の信心に取り組ませて頂きたいと言う風に思います。世の人があれこれと例えば、口の端にかけておった人達でも、成る程金光様の御信心とは、今日私とにかくね人間の幸せというのは、金光様いわゆる金光教祖が辿られた生き方。言うなら実意丁寧神信心の生き方。
そこから生まれてくる和賀心、この和賀心を頂かずして人間の幸福はあり得ないんだと言う事をです。分からせて頂くと言う事を世界中の人達に、それを体得してもらうと言う事は出来ないでもです。人間の幸福というのはこういう生き方でなければ、人間の幸福はあり得ないんだとだけでも良いから分かって欲しい。それには私自身がです。金光様の信心の生き方によって、本当に世の幸福というか人間の幸福というものを感じさせて頂くおかげを頂いて、それが広められて行かなければいけない。
もう分かって貰うだけで良いと思う。実意丁寧神信心、金光教祖が辿られた、ああいう生き方生きられ方。そういう生きられ方の中にこそです。人間の幸福と言うものはあるんだと分かるだけで良い。それをね自分一人じゃない自分一家だけじゃない、自分の周辺にです、その事を押し広めて行こうという、大きな願いに立っておかげを頂きたい。そういう大きなおかげを願わせて貰える信心、その大きな願いの中に私がある。
神様のお喜びと言う事は、是に増した事はなかろうと思う。どうぞ私がおかげではなくてです。そういう事が実感としてです、自分の周囲の事が切実に願われる。こういう生き方がある。この生き方こそが幸福につながるんだと言う事を、自分自身が信じて分からせ貰うて、それを周囲に広めて行くという事。それが世界中の人達に分かって貰うだけでも良い。こういう生き方があると言うことを。と。
言う様な私は大きな願いをさせて頂く所にね、大きなおかげの受け物がそこにあると思う。勿論それが実感としてでなからなければなりません。そういう願いをせて頂いてる時に、今日は所謂大きなオイサミがありましたですよね。私の御祈念中に。人間の本当の幸福の生き方というのは、ここにあるのだ是だというものをです。一人でも多くの人に分かって貰いたいという、大きな祈り願い、それが神様の願いでもありゃ神の喜びでもあるのです。その中に私共があるのですからね。
大は小を兼ねるという、所謂大きな願いの中に、私共が助かって行く道が、そこにあるんです。そういう願いと同時にです。所謂神様信心のある者とない者の違いの、いわば本当に意味において、心も幸福ならば、形の上においても、成程幸福を皆に、分かって貰える程しのおかげ、そういうおかげを現わして行く事。それがただ神が顔を洗うてやると仰ることは、そう言う様な事だという風に思うのです。
どうぞ一つ今年、今日で締めくくらせて頂くのですから。そこん所の思いをいっちょ本当に一つ検討してみてですね、愈々今晩の除夜祭にはその事を、心にそのほぞを固めさせて頂いた事を神様に見て貰い、又は一年間のおかげを受けてきた事を、心から御礼を申し上げそして来年は、是でやらして下さい、この生き方で行くと言う事を、自分にも又は神様にもお取次が頂け、願えれる信心を頂きたいものだと思いますね。
どうぞ。